株式会社アステム入社希望の皆さま > アステムの歴史

アステムの歴史 HISTORY

アステムの歴史 第一話

1960~1990年代 創業以来の右肩上がりから、
まさかの急転落。

アステムの前身、日野設備工業が創業したのは1962(昭和37)年。現在代表を務める野口が生まれて間もない頃、両親が横浜の公団住宅の一室に事務所を構えスタートし、1年後には日野設備工業株式会社として本格的に事業を開始した。

当時の日本は、高度経済成長の真っ只中。つくればつくるほど製品は売れ、会社も順調に成長を続けた。野口が営業として入社したのはバブルの絶頂期。数年後にどんでん返しが起こるとも知らず、世の中は朝から晩まで浮かれていたという。

「嘘みたいな話ですけど、接待のためにゴルフ場予約するのが仕事みたいなもんでしたから。それでも会社は回っていたわけだから、真面目に仕事するのもバカらしくなりますよね」。

写真

そんな社会人生活を続けて5年目を迎えたある日、いつものように客先に行くと開口一番「1番安いところから買うから」と言われた野口。突然の出来事に面食らいながらも競合の見積もりを見せてもらうと、自社の工場出荷額よりも3割も安い価格だった。バブルが弾けて建設業界がシュリンク、供給過剰状態から価格崩壊が起きたのだ。

なす術なく会社に戻った野口は、なんとかして工場出荷額を抑えることができないか、社長である父・敬三に相談した。しかし、いくら窮状を訴えても、ことの重大さを理解してもらうことができなかったという。

「『売れない物を売るのが営業マンの仕事だろ!』とか言われて。でも、やっぱり圧倒的な価格差はどうにもならないんですよ。製品は売れない、工場の稼働率は下がる、経営状態が悪くなる。完全に負のスパイラルに入ってましたね。で、父もさすがにまずいと思ったんでしょう。新しい製品の代理店になるって言い出して。よくよく聞いてみると畑違いの製品で、そのために1,000万円で権利を買うって言うんですよ。そのお金を使って生産設備を補強した方がいいと主張したんですが、説得することはできませんでしたね。それどころか、『そんなに生産性を上げたいなら工場に行け』と言われて、角田の工場に飛ばされてしまいました」。

写真 宮城県角田市の工場

本社からは遠く離れた、宮城県角田市の工場長に就任した野口。現場経験はゼロ、生産のことはもちろん何一つわからない。しかも、就任前に「全然物が売れないじゃないか、責任取れ」という社長の一声で、工場長と製造部長が解雇になっていた。「当然現場のみなさんは、僕が解雇したと思いますよね。『今度本社のバカ息子が工場長になるらしいよ』とか、わざわざ聞こえるように言われたりもしましたから」。

悪くなる一方の会社の経営状況。味方が1人もいない見ず知らずの土地。大きな大きなマイナスの位置から、野口の工場長としての日々が始まった。

アステムの歴史 第二話

写真

1990年代後半 大切な家族との別れと、
立て直しへの第一歩。

1995年6月。工場長として宮城県角田市に赴任して半年、従業員とろくにコミュニケーションをとることもできないまま野口は鬱々とした日々を重ねていた。そんな折、横浜の実家から電話がかかってきた。「弟が病院に運ばれたからすぐに帰ってこい」。大きな不安を抱えながら、野口は急いで家族のもとへと向かった。

「私は長男で、下に弟と妹が1人ずついるんですが、弟は仮死状態で生まれて脳性麻痺を患っていました。ほぼ寝たきりで、言葉をはっきり喋ることはできなかったんですが、僕とはきちんと意思疎通ができていました。私が角田に行くことが決まったときに『自分が健常者だったら、兄貴のこと助けられたのに』って泣いてくれるような奴で、本当に仲が良かったんですよね」。野口の到着後、ほどなくして弟さんは息を引き取ったという。

写真

その半年後の12月、野口には大きな仕事が待っていた。従業員へのボーナスの支払いだ。夏はボーナスが出せなかったため、冬にはなんとか出したいと野口は考えていた。

「車を売ったり、バブルのときに買わされたリゾートホテルやゴルフ場の会員権を売ったりして、どうにかこうにかしてみなさんにボーナスを出しました。本来なら運転資金に回さないといけないんでしょうけど、従業員にも生活がありますからね」。

年末の資金繰りとボーナスの支払いをなんとか終えたが、野口には息つく暇もなかった。ともに年末の大仕事に奔走してくれた経理担当の母・正子の体に癌が見つかったのだ。

「しばらく前から『背中が痛い、背中が痛い』って言っていたので、12月に検査入院をさせたんですが、すい臓がんが見つかってしまって。しかも、その時点でステージⅣ、もって3ヶ月という状態だったんです。迷った末に、結局母には伝えなかったんですが、察したんでしょうね。ある日枕元に呼ばれてこう言われたんです。『私は経理として、日野設備に随分尽くした。お金がないから退職金はもらえないだろうけど、自社株をもらってあなたに贈与するから、それで会社を頑張りなさい』って」。

写真

1996年4月、「兄弟仲良くね」と言い残し、母・正子は亡くなった。弟を亡くしてから、まだ1年も経たないうちのことだった。

会社の経営は、依然として苦しい状況が続いていた。大切な家族を2人も亡くした悲しみは、とてつもなく大きなものだった。しかし、それでも前に進もうとあがく野口に、わずかながら追い風が吹き始めた。1つは、従業員たちの姿勢。逆境に立ち向かい続ける野口を支える動きが、少しずつ出てきていた。そしてもう1つ、ある顧客との出会いをきっかけに、ついに会社が復活への第一歩を踏み出すことになったのだ。

アステムの歴史 第三話

写真

1997年 さらなる苦難を乗り越え、
再起へと踏み出した。

復活への一歩目を踏み出すきっかけとなった会社は、仙台にある会社だった。

「翌日だったか、翌々日だったか、いくらかかってもいいからとにかく早くつくってくれって言うんですよ。当時は暇ですから、まあできない仕事ではないわけです。オーダー通りに仕上げて納品したら、とても喜んでいただけて。八方塞がりなわけですから、これしかないなと思いますよね」。

写真

短納期。現在まで脈々と受け継がれるアステムの強みは、この出会いがきっかけで生まれた。やるべきことは見えたのに、資金がない。しかし、なんとかして資金を集めなければ、会社は倒産してしまう。野口は短納期を軸にした事業計画をまとめあげ、出資先を探し片っ端から電話をかけた。「いいよ、話聞いてあげるよ」。はじめにそう言ってくれたのは、埼玉県川口市にある会社だった。ビジョンについての想いをまっすぐに伝える野口に、先方もいい反応だったが、債権者リストを見せた途端、顔色が急変したという。

「筆頭債権者に、整理屋が入っていたんです。私が知らないうちに、父が契約をしてしまっていたんです。倒産狙いで、隠し資産まですべて持っていくのが整理屋の目的ですから、出資してもらえるわけがないですよね」。

残念ながら、助けることはできない。当然の回答ではあったが、野口はひどく落胆した。出資してもらえるだろうと意気揚々と出てきた手前帰るに帰れなくなり、どこへ行くでもなく、大宮駅前のペデストリアンデッキを夕闇の中ぐるぐると回り続け、気づけば終電になっていた。意を決して野口は、妻・禎子に電話をかけた。

「ダメだった。この一言を絞り出すのが、本当に辛かったですね。その後、近くで1番安い宿に泊まったんですが、あのときラーメンをすすりながら飲んだ紹興酒の味はね、忘れられないですよ」。

やるだけのことはやった。翌朝、そう自分に言い聞かせながら家に帰ると、禎子が同じ言葉で出迎えてくれた。破産という言葉が何度もチラつく中、踏みとどまらせてくれたのは亡き母・正子の言葉だった。

「病に犯され苦しみながらも会社の心配をし、何度も繰り返していた『たかし、頼むね』って言葉が聞こえてきて。まだ余力あるんだから、やるだけやってやろう。諦めるのはその後だって思い直したんです」。

なんとか踏ん張って、次に訪問したのは山形の会社だった。整理屋が入っていることを正直に伝え、誠心誠意描いているビジョンを語ると、「そんなに頑張れるならいいよ。短納期のスタイル実現してみなさい」と言ってもらうことができた。

「もう本当に、首の皮1枚でつながった感じですよね。ただ、こちらでお願いした金額が4,500万円で、うちの資本金が1,600万円だったので、そのまま資本金になってしまうと子会社化されてしまう。そのことまで気遣っていただいて、1,500万円を資本金として、3,000万円を証書貸付として、出してくださったんです。今、うちの株価が当時の12倍なので、なんとか恩返しできたかなと思っています」。

再起を誓い、野口は力強く歩き出した。

アステムの歴史 第四話

写真

1997~2002年 社員たちに気づかされた、
顧客満足度を支える
「満足度」の大切さ。

再起のため、野口がまず向かったのは、出資を断られてしまった埼玉の会社だった。出資元が見つかり会社を続けられることを報告すると、こんな言葉が返ってきた。

「出資できなかった分仕事で応援するよ。そう言っていただけたんです。全国に営業所がある会社だったので、とてもありがたかったですね」。

短納期を掲げていたが、それでも納期的に厳しい仕事がなかったわけではない。それでも、必死に食らいつき仕事をこなしたが、忙しさが毎日続いていたわけではなかった。さらなる仕事を獲得するため、野口は西日本にまで足を伸ばし営業を続けた。少しずつではあったが売り上げは右肩上がりに伸び、ボーナスも払えるようになった。しかし、ある事件をきっかけに、毎日が順調に見えていたのは自分だけだったことに気がつくことになる。

「社会保険労務士さんの提案で、2002年に社内コミュニケーション診断っていうアンケート調査をしたんです。はじめは社員30名を対象に行ったんですが、それが本当にひどい結果で」。

「会社の方針をみんなに示してほしい」「仕事優先で人間関係的な部分が軽視されている」「能力的に不十分な幹部が長く同じポジションにいる」「毎日が憂鬱である」「忙しいときは上役も仕事を手伝ってほしい」「直属の部下に会おうとしない」などなど、自由記述欄に並んだ回答は大半がネガティブなものだった。

「地獄みたいな状況から立ち上がって頑張ってきたの、なんのためだったんだろうって。読んでるうちにプルプル震えてきちゃって、社会保険労務士さんになだめられたくらいですから。でも、最後の最後に『このような調査をしてくれるのは、会社が社員のことを考えてくれている証だ』って書いてあって。そうか、俺間違ってたんだって。顧客満足度の前に社員の満足度だったなって。もう半べそかきながら、まずはみなさんに謝りました」。

野口はそこからすぐに頭を切り替え、業務改善のためのアンケートをとり、その一つひとつに応えるかたちで地道に改善活動を続けた。社員の満足度が向上していったことはもちろん、中央労働災害防止協会会長賞という労務管理分野の最高峰である賞を受賞することもできた。

短納期という強みを活かして仕事を獲得する力、社員が快適にモチベーションを持って働くことができる環境を維持する力、長い年月をかけた努力の末に歯車が噛み合い、ついにアステムは動き出したのだ。

アステムの歴史 第五話

写真

~現代 目指すは短納期のスペシャリストと、アジアの空調機器のパイオニアの両立。

幾多の壁を乗り越え、ついに動き出したアステム。この好機を逃すまいと、野口は息つく間もなく次の一手を打つ。

「仕事はある、社員のやる気もある。ただ、当時は技術力が低かった。どうしようかと考えた末、九州にある当時業界ナンバーワンの会社に、力を貸して欲しいと単身お願いに行きました。そうしたら、『定年退職したうちのOB派遣するから、しっかり勉強しなさい』と言っていただけて。その方にしばらく滞在していただき、いろいろと学ばせてもらうことができたんです。ノウハウを取り入れるたびに、設備投資なしでも生産性がどんどん上がっていって本当に驚きましたね」。

山形の会社に資金面で、埼玉の会社に営業面で、そして九州の会社には技術面で支えてもらいながら努力を続け、成長を続け、アステムの今があるのだ。

野口には現在、2つ大きな目標があるという。1つは、短納期をより高いレベルで実現すること。
「短納期を掲げた当初、月曜日につくったものを木曜日に出荷する流れで『1week デリバリー』と呼んでいたものが、今は1日早く水曜日に出荷できるようになっているんです。お客さまの業界の中で、短納期ニーズは数で言うとそこまで多くはありませんが、よりレベルの高い短納期を目指し、この領域ではどこにも負けないようにするのが目標です」。

写真 代表取締役 野口敬志

2つ目は、マーケットを海外へと拡大することだという。
「短納期を実現するために追求してきた、徹底した生産管理による生産性向上のノウハウを活かし、まずはインドネシアに進出しています。現在インドネシアでは、空調機器は海外からの輸入に頼っている状況なんですが、自国でつくった方がいろいろと都合がいいのは間違いありません。インドネシアでビル空調のトップメーカーを目指しつつ、タイ、ベトナムなどでも事業を展開していきたいと考えています。自分が現役のうちにどこまでいけるかわかりませんが、頑張っていきたいですね」。

何度も挫けそうになりながらも、その度にたくさんの方々に支えられ野口は歩き続けてきた。宮城の小さな町から、全国へ、海外へと広がるその歩みは、まだまだ止まることはない。